国分清水地区

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天御中主神社

天御中主神社の境内の写真

 清水弟子丸にあります。建立は「神社明細帳」によると寛弘元年(1004)。昔から清水の総鎮守として崇敬を集め、「北辰さぁ」と呼び親しまれています。御祭神は天御中主命、大日賣命、月読命、伊邪那岐命、伊邪那美命。


 北斗星は仏教では妙見菩薩と呼ばれ、道教や陰陽道でも重要視された星神です。また共研菩薩は中世以降、武士たちに弓矢の神として信仰され、仏教においても妙見宮を鎮守として勧請されました。明治初年の廃仏毀釈を契機に仏教的な呼び名が避けられ、代わりに天御中主神の神格と重ねて天御中主神社となっています。

 「神社誌」によると祈願所は台明寺。本地堂は神社より北に二町のところ、森木田の毘沙門天、また神社の鎮座の場所には鼻が七ついた霊岩があり、これは北斗七星の靱先だといいます。さらに神社の宝殿の辰巳の方角にある塩井川には幣吊を捧げ、水神に菜·清酒を供えますが、この泉が「清水」の地名の由来とみられると「国分郷土誌」では記述されています。

 「三國名勝図会」には、大永2年に清水城の城主である本田因幡守親兼と重建が奉納した棟札があったとされ、例祭は一年に八度行われていたとしています。江戸後期の社司は、谷口氏が務め、その祖先である谷口安房介入道神光は、天文元年から9年まで全国の60余州を遍歴して法華経を諸所に奉納して国家の福を祈ったとしています。

 濱田良嗣宮司によると、3月1日の祈年祭では、近年までは「ふつのだご」と呼ばれるよもぎ団子の奉納と販売が行われ、祭りはそれを目的とした参拝者も多かったとしています。地元の婦人からによって構成された「よもぎ会」によって作られていていましたが、高齢化等によって現在は休止しています。

 7月の第3日曜日に行われる「お下り」は現在でも盛んに行われています。氏子の地域にあるお旅所を一日かけて15ヶ所を神主、神輿、太鼓、旗持ちなどで行列を組みめぐるといいます。他にも戦前には武運長久の神として信仰され、加治木や浜之市あたりからも参拝者が多かったといいます。そ の際に購入した神社のお札を鉄兜に入れて戦地に持っていったといいます。

南方神社 

 弟子丸宇都に鎮座し、御祭神は建御名方命天照姫命とされています。「三國名勝図会」によると、当社の建立には、清水城の城主であった本田氏が関与したとし、江戸時代後期には谷口氏が社司をしていたとしています。御神体として衣冠束帯の木像が安置されているといいます。創建年代は不明ですが、かつては諏訪神社または諏訪大明神と尊崇され、明治維新後に現在の社名に変更されました。永正13年卯月吉日に奉納された棟札がかつてはあったとされ、その頃には社殿の左側に巨大な楠木が立ち並び、境内は荘厳な雰囲気であったとしています。また社殿には名高き歌人の絵板が掲げられていたが、現在はそれも失われています。それらの絵板は、島津以久と彰久の武運長久や子孫繁栄などを願って奉納されたものと伝わります(清水村郷土誌資料より)。

南方神社の境内の写真

榜厳寺跡    

 清水郷の菩提所である曹洞宗の佛頂山榜厳寺は、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。現在は、清水団地隣接地にある墓地が当時を偲ばせてくれます。「三國名勝図会」によると、越前國宅良慈眼寺の末寺でありご本尊が釈迦如来像とあり、また応永年間(1394~1428年)に清水城主であった本田因幡守親治が奥州の自性禅師を招聘して開山しています。開山当時は惣勝寺と称していましたが、第二世住職の機堂和尚によって榜厳寺と名付けられました。

 天文7(1548)年に島津忠良や貴久が清水城を攻め、本田薫親を追放してからは、島津忠将が当寺を信仰するようになります。その島津忠将が永禄4   (1561)年に福山の廻城の戦いにおいて戦死すると、当寺に葬られ菩提寺となりました。墓地には島津忠将と戦死した家臣の墓が数十基、孫の彰久、妻の南君の墓があったとされています。

清水城跡

 清水城は最高点を標高182メートルとし、城域は最大で東西約900メートル、南北約600メートルの山城です。主として入戸火砕流の溶結部と非溶結部上にあることから絶壁上に本丸などがあり、入城には大変な場所です。東には標高が130メートル程の山が連なり、北東に向けて六郷谷や寒沢津の谷が発達しています。西には、城主でもあった島津忠将の館跡とされる屋地や江戸期には清水麓として士族の居住空間が広がっています。
 「三國名勝図会」では最初の城主は、島津忠久の守護代であった本田貞親としています。貞親は大隅国の守護代でもあり、その拠点として清水城を位置付けたとしています。その後は、鎌倉中期になると在庁官人であった税所氏が当地一帯を拠点としていることから、税所氏が拠点としたようです。

清水城跡の写真

 永和3 (1377)年には、大隅国守護の島津氏久がする税所一族を攻略し清水城は、氏久の家臣である本田氏親·親治父子に預けられます。

 その後となる天文17 (1548)年5月、本田氏の居城であった清水城を島津本宗家の島津貴久と父の忠良が攻略し、貴久の弟の忠将が接収することになります。天文17 (1548)年10月、島津貴久は清水城に入城します。その翌年の7月にイエズス会のフランシスコ ザビエルが鹿児島に上陸し、その後、キリスト教布教の許可を得るためにザビエルは貴久と会見を行うことになりますが、その会見の地が清水城ではとの説もあります。

 永禄4 (1561)年、清水城主の島津忠将は、肝付氏との戦いのために、甥の義久とともに廻城(霧島市福山町)に向かいますが、7月12日に馬立陣の戦いで亡くなります。忠将の清水城時代は、約13年であったが、現在でも館とされる場所は、清水城麓の屋地から大山·平等寺にかけて伝わっています。

清水郷地頭仮屋跡

 江戸期に入り、清水外城こと清水郷は、弟子丸村 郡田村·山之路村·川原村 姫城村の五ヶ村で構成されました。鹿児島藩内においては最終的に113外城が成立しますが、清水郷に隣接する地域としては国分郷、敷根郷、福山郷、曾於郡郷、日当山郷がありました。

 外城には藩の直轄領には地頭仮屋が置かれることになりますが、清水郷は直轄であったことから地頭仮屋があり、「清水村郷土誌資料」によると、仮屋の入口にあたる仮屋門は格式のある形状をし、その門をくぐっても仮屋の建物にはまっすぐには到達できずに、中門やくぐり門が設置された構造になっています。また、仮屋門付近には火薬の原料となる硝石を保管するための瓦葺きの「塩硝小屋」も見られます。また仮屋の東側には裏門もあり、その付近には上蔵やもみくら、馬屋などが立ち並んでいることも記載されています。仮屋建物の北西側には、弓場も見られるなど、江戸期の清水郷士らがどのような場所で職務に行っていたのかがわかる貴重な史料です。

 外城には藩の直轄領には地頭仮屋が置かれることになりますが、清水郷は直轄であったことから地頭仮屋があり、「清水村郷土誌資料」によると、仮屋の入口にあたる仮屋門は格式のある形状をし、その門をくぐっても仮屋の建物にはまっすぐには到達できずに、中門やくぐり門が設置された構造になっています。また、仮屋門付近には火薬の原料となる硝石を保管するための瓦葺きの「塩硝小屋」も見られます。また仮屋の東側には裏門もあり、その付近には上蔵やもみくら、馬屋などが立ち並んでいることも記載されています。仮屋建物の北西側には、弓場も見られるなど、江戸期の清水郷士らがどのような場所で職務に行っていたのかがわかる貴重な史料です。

清水郷地頭仮屋跡の写真

 また外城の行政 軍事を司るのは地頭であり、地域によっては地頭も任地に在勤することもありましたが、清水郷はこれにはあたりませんでした。そのため、実質的な郷の行政は、曖(郷士年寄)、組頭、横目の所三役が行い、それらは現地在住の外城衆中(郷士)から選出されました。

清水旧郵便局

郵便制度が開始された明治時代、その制度の普及を支えたのは地域の名士でした。士地や建物を提供する代わりに郵便取扱役に任命され業務を行いました。

清水旧郵便局の概要図①
清水旧郵便局の概要図②

清水麓(武家屋敷群)

清水麓の写真

 士族の居住地区は地域のなかで集中することになり、それらは「府本」こと「麓」と呼ばれるようになります。清水麓は、弟子丸村には新田馬場、羽坂、玄亀庵、大山、平等、寺馬場、牟田、内馬場、豊之口、北迫、安田口です。また、山之路村の和田·坂上·落水·釈迦田にも郷士が居住していました。それらは士小路として区域分けされ、そのなかの要所には「先なしの所」という行き止まりや「枡形」が設けられた。「先なしの所」の場所は、平等馬場、豊之口、巣堂口、落水口、玄亀口の五ケ所で、「枡形」は神崎利右衛門屋敷角、赤塚喜右衛門屋敷角、大山万膳方屋敷角、芝原五郎左衛門屋敷角でした。また、藩や郷における重要事項を伝えるための高札(掲示板)は、豊之口にあった。また、雉牟田地区の沼地は、戦略上の要地とされていたといいます。

 「旧記雑録」によると寛永13 (1636)年の清水衆は人数1876人、うち男子1082人、鉄砲69挺、弓19張、槍32本を備えていたとしています。寛永16  (1639)年の衆中高は780石余り、うち寺家分19石。衆中人林119、知行取は116で30石以上は2家でした。正徳3 (1713)年は清水郷の所惣高は5715石で、衆中高は665石、衆中惣人数は742人で衆中人鉢は 144、用夫は368人でした。

鶴丸どんの馬場の石散常(石敢当)

 麓の主要馬場·「鶴丸どんの馬場」の由来は、麓郷士の鶴丸家があったことと考えられていますが、北端に枡形があります。この馬場の突き当りにあるのが、南九州から沖縄にかけて、地域の三叉路などによくみられる「石敢当(せっかんとう)」です。高さは30センチ前後のものが多い中、長さが130センチもある。下部は石垣と一体化し、上部はコンクリートと一体化しているという時代の変遷も伝えています。珍しい点は、上部と下部の両方に「石散嘗」と彫り込まれていることです。彫り具合からみて、上部が古い時代のものと考えられます。

鶴丸どんの馬場の石敢当の写真

 石散常の背後にある住宅 旧安田商店に居住されていた方のお話によると、太平洋戦争の空襲で突き当り付近に時限爆弾が落ち周囲含め被害を受け、その後に石垣と共に復旧させたためとのこと。つまり、下部の文字は戦後に追加されたということになります。

 上部の建立年ははっきりしていて、元文5 (1740)年11月吉日とあり、現在確認されているなかでは県内で二番目に古いものとされています。

清水村役場跡

 明治22  (1889)年4月の町村制の施行によって清水村が誕生し、村議会選挙を経て村長と助役が選出されました。初代村長は若松勇祐氏で、助役は木佐木茂氏、村会議長は木佐木助左衛門氏でした。その後昭和22年4月には地方自治法が公布されて、市町村長が住民による直接選挙で選ばれることになりました。その頃、隣接する東襲山村と霧島村の分村問題があり、それに伴って清水村の境界変更が行われることになりました。そこで内務大臣の許可を得て、霧島村重久の前畑·池田·軽石田 川上·七曲迫·北田代南田代が清水村に編入されることになり、当時で戸数10戸、人口63人、面積八町八反歩が清水村となりました。その後、清水村は国分町と東襲山村との合併が協議されることになり、清水村の大字姫城の一部は隼人町に合併することになりました。その理由としては、交通、経済、学校の面から地元の要望の意見が強かったとされています。その後、昭和29年4月に合併されて、清水村は消滅して国分町になりました。現在は、当時村役場があった場所に門柱だけが残されています。

清水村役場跡の写真

弟子丸溜池

弟子丸溜池の写真

 「清水村郷土誌資料」によると、溜池の面積は三反九畝六歩で、灌漑面積は84町壱畝二歩とあります。最初に設置された年代は不明ですが、藩政時代には必要に応じて池の浚渫が行われていたとされています。しかし、大正3年の桜島の大爆発に際しては、降灰があり池も埋没してしまい、灌漑利用ができなくなったとされています。そこで昭和7年に国庫の補助を受けて改修工事を12月21日に起工し、翌年の4月10日に竣工しています。

乳尾の岡

 現在の国分中学校の敷地内に記念碑があります。「智之尾丘」ともいわれ、昭和31年に国分中学校建設のための工事によって大きく周辺の環境は変化しました。かつてはこの地に智尾神社があり、建久年間(1190~ 1199年)に建部宗房によって創建されたといいます。智尾の語源に「千穂」があると「清水村郷土誌資料」にあります。それには、高千穂の峯に天孫が降臨した際、霧が立ち込めていたところ、稲千穂の籾をまくと霧が晴れて、進路が開けたとの神話が伝わります。それに由来して天孫であるイザナギノミコトを御祭神とした神社があったといいます。

乳尾の岡の記念碑の写真
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