国分郡田地区

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郡田川中流域

郡田川の中流域の写真

 河川敷には在来のツルヨシ群落、セイコノヨシ群落、オギ群落、カラムシ群落、ヨモギ群落、クズ群落、カナムグラ群落、チガヤ群落、外来植物群落としてはセイタカアワダチソウ群落、ヒメムカショモギ群落、タチスズメノヒエ群落などが分布します。

 面積的にはセイコノヨシ群落、チガヤ群落、カナムグラ群落、カラムシ群落等が広く分布しています。ただ、河川幅が狭小のため湿地面積は狭く、ヤナギ林などの低木林は分布していません。

 植生の断面をみると右岸側は河川中心部から流路に接すところでツルヨシ群落、河川敷の主体はセイコノヨシ群落その中でやや高くなった砂地にオギ群落、泥地を含む立地にセイタカアワダチソウ群落、カラムシ群落、堤防の駆け上がり部分にカナムグラ群落、クズ群落などの蔓植物群落、土堤防上にはチガヤ群落、道路辺にはシバ群落となります。特徴的な群落としてオギ群落があります。オギは川に生える一定時間の湛水にも耐えることのできるススキで、葉鞘が赤く、そこに毛が密生し、花穂はきわだった白銀色です。鹿児島県本土は自生の南限で、郡田川のオギも南限地帯の群落で貴重と言えます。

止上神社

止上神社の写真

 止上神社は重久地区に鎮座しますが、清水地区との関係も深い神社です。現在の御祭神は「鹿児島神社誌」によると、ヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメノミコト、ニニギノミコト、八幡大神、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメノミコトとあります。創建年代の詳細は不明だが「三國名勝図会」によると、景行天皇が隼人制圧のために、この地を訪れた際に六所権現の霊神が大鷹となって現れて、天皇を加護し、その平定が成功したことから、その霊神を祀ったのが始まりとしています。

 また、止上神社では旧暦正月7日から22日にかけて「王の御幸」という隼人を鎮魂する祭事が慶長期まで行われていたとされています。そこでは、白 赤 白 赤 黒·黄の六人の「王」や神職らと神輿が、止上神社の社領4ヶ所の御旅所を巡幸するというものであったとされています。御旅所の一つとして弟子丸小止上上社があったとされており、そこでは王面(奉納掛け面)が使用されていて、現在も51面があり国分郷土館に保存されています。その面の数は、鹿児島県内の神社所有としては最多とされており、止上神社の祭事の繁栄が示されたものです。他にも現在の社殿のある背後地には尾群山があり、元々はその山頂に鎮座していたともいわれています。

熊野神社

 郡田の宇都良に鎮座し、御祭神はイザナギノミコト、イザナミノミコト、事解男命、速玉男命で、御神体として束帯の木像があるといいます。創建は不明ですが、清水郷の郷士である大田氏の祖先が創建に関与し、天正年間の先祖である淡路守から代々宮司を務めていたとしています。

 かつては熊野三所大権現と称し、明治維新後に現在の社名になったといいます。元禄15年3月21日に火災が発生し、宝殿や拝殿、棟札や古文書などが全部焼失してしまい由緒などが分からなくなったといいます(清水村郷土誌資料より)。

熊野神社の写真

 昭和55年8月発行の「市報こくぶ」によると、火災後となる元禄15年 12月に宝殿、その6年後に拝殿、9年後には大権現宮が建立されたことを示す棟札が保存されていたとしています。現在も「お下り」行事などは行われ、鶴丸宮司によると、氏子集落は宇都良、片平、山元、久保田、馴松で、神輿は軽トラックに乗せられてめぐるといいます。

照石(照一子)神社

照石(照一子)神社の写真

 木原に鎮座し、創建年代などは不詳ながら元々は木原の坂元家の宅神として信仰されていました。現在は坂元七郎左衛門方の宅地内に安置しています。坂元家は山法師で戦国時代に島津家の当主によって、現在の北永野田に移住し、七社神社の下に宅地を設けたといいます。それは地方警備の役割であったとされています。その後、坂元将監という山法師の時代となる弘治4年11月に、雇っていた若き男女が恋仲となり、女性は身ごもることになりました。その行動に怒った山法師は両人とも鼈の前で殺害したといいます。

 その後に坂元家では不幸が連続するようになり、両人の霊を鼈の側に祭り、命日には毎年寵祭として神舞を奉納するようになったといいます。さらにその後に、木佐木正蔵という人物が、当社を「チシイ神様」と命ずるようになり、旧暦3月には、国分平野の広い範囲から婦女子がお産に霊験あらたかということで参拝するようにあり、祭りの日には三味線が登場するなど賑やかなものであったとしていいます。これが「チシイカンサアメイ」と呼ばれていました(清水村郷土誌資料より)。

 昭和61年発行の「市報こくぶ」によると、当時80余歳の女性が「北辰様(現在の天御中主神社)の前を通り、はしご坂をのぼり、毛梨野を過ぎ不便な道を歩いて参詣、おねこ(おきなぐさ)も土産に帰った夜は、にしめを持ち寄って慰労会が行われました。」と証言しています。

岡山大神宮と記念碑

 木原地区の上木原公民館横の小高い場所に石祠とふたつの記念碑が並びます。また、その後ろの木に隠れた場所にも石祠があります。後ろ側の祠には、正面に「奉  山神文政四巳四月」と刻まれており、文政4   (1857)年4月に山神として建立された石祠であることが理解できます。

 背の高い記念碑は上木原水道記念碑で、昭和35年1月20日に建立されたもので、前年の10月15日に水道工事が竣工したことを記念したものです。もうひとつの記念碑は道路開通碑で、昭和11年7月23日に発生した豪雨により被害を受けた道路等の改修工事の竣工を示すものです。昭和13年4月1日から昭和14年3月31日までのエ期であったことが石碑に示されています。

 一番左端にある石祠は、岡山大神宮と呼ばれ、木原方限の守り神として信仰されています。石祠には「岡山大神宮奉安政二卯三月  木原方限」と刻まれています。安政2   (1855)年 3月に地域の人々によって建立され、岡山とはこのあたりの小高い場所を示すものと考えられています。

上木原水道記念碑と道路開通碑の写真

重久中台溝

 取水口は、手籠川の上流の関の坂の左岸で、清水村の郡田の田んぼの水田に通水しています。設置された年代は不明ですが、明治期以前とされています。明治24 (1891)年12月26日には、清水村と東襲山村と国分村の三村で普通水利組合が設置されていて、清水村長が管理組合長になっています。

平溝(清水新田)

 平溝は、通称清水新田とも呼ばれ、清水地区の郡田川の中流部に位置する郡田 馴松から取水した用水路です。現在の用水路の全長は約8キロメートルで、灌漑面積は約143メートルとされています。主に清水地区の弟子丸や国分地区の西部(中央、唐仁町など)、さらに上小川 松木·福島といった現在は商業地や住宅地となる地区の水田に水を供給しています。

 「鹿児島県維新前土木史」によると、寛文年間(1661~1672年)に整備されたとあります。その頃は、新川の川筋直し(1662~1666年)が行われた時期でもあり、国分平野における大規模な新田開発の一環としてのエ事であった可能性もあります。また平溝の延長地域が、川筋疸しによって流路から水田へと転換された地域も含まれることから、用水路の工事は取水口付近の清水地区と平野部の国分地区と段階的に整備されたとも推測されます。

 ただ「清水村郷土誌資料」には、宝永3(1706)年に郡田の平良門の名頭四郎兵衛が、取水工事に失敗した藩庁から依頼され、成功させたとあります。この平良門の四郎兵衛による工事であったことから、始めは「タイラ」から「テラ土手」、さらに「テラ」から「平溝」になったとされています。

 前述のように四郎兵衛時代の工事竣工を伝えるのが馴松にある水神碑で、宝永3 (1706)年の年号が刻まれています。

牧内の茶業

 「三國名勝図会」に清水郷の特産品として茶も記載されています。「清水村郷士誌資料」によると、川原及び郡田の上場方面の高原地帯が茶の名産地であったとし、特に黒石と牧内が名高い土地であったとしています。牧内については、昭和5年に弟子丸の上原正猛氏が畑2町5反歩を茶園の経 営を始めたとしています。その際には清水村において初めてとなる製茶機械を導入するものでしたが、昭和9年には茶園の権利を一切清水産業組合に譲っています。その工場は成績も優良で、村でも唯一の模範となる工場であるばかりか県下への茶業普及にも模範となるできものであったとしています。牧内においては、現在でも清水地区においては最も製茶業の盛んな地域です。

郡田の牧

 「国分郷士誌」によると、江戸時代に藩内には馬の養成のための牧が藩直営として18ヶ所設けられたとしています。そのひとつが、清水郷に隣接する曾於郡郷にあった春山牧です。ただ、春山牧の周囲2里1 0町と広大であったことから、その3分の1は清水郷にかかっていました。

 「三國名勝図会」や「鹿児島県史」には春山牧の飼育頭数があり、宝永6 (1709)年では456頭、安永6 (1777)年では306頭、天保9 (1838)年では140頭であったといます。また、藩営の牧においては毎年4月か8月に二歳馬を集める「馬追行事」が行われていました。春山牧でも開催され、その際には曾於郡郷はもちろん、清水郷や日当山郷、敷根郷などからも役夫が集められていました。牧があったことを示す地名は、春山牧の一部であったとされる木原周辺には牧内や牧神があります。

冨吉栄二誕生地

 冨吉栄二は「郷上人系 上巻」や「鹿児島大百科辞典」によると、明治 32年に清水村郡田に生まれました。研数館高等科を卒業後に国分精華学校の教師となります。その際に国分出身の濱田仁左衛門や敷根出身の内田一二、社会主義者の山川均と親交を結び、その後に教師を退官して農民解放運動に挺身します。大正13年の姶良郡小作農組合連合会の結成に関わり、日本農民組合に加入しました。大正14年には鹿児島県連合会として改称し、後には会長となります。その後に清水村議を経て、昭和2年に鹿児島県議会議員に当選。県議時代の冨吉の演説は、「ウソを言ってもほんとに聞こえる」と評されるほど面白く、人気もあったといいます。

冨吉栄二誕生地の写真

 昭和5年には日本労農党姶良支部をつくり、昭和7年には社衆党鹿児島県連合会長に就任。昭和11年には衆議員議員に当選し、戦後となる昭和 21年の衆議員議員選挙で日本社会党として当選します。その後は4期当選して芦田均内閣では逓信大臣に任ぜられました。しかし、昭和29年の青函連絡船の洞爺丸沈没事件で遭難し、55歳で亡くなります。社会運動に没頭していた人生において、逮捕も17回に及んだといいます。墓は教鞭をとった国分精華学校(現在の国分中央高校)裏にある竜相寺墓地にあります。

亀ノ甲岡の伝説

 清水村郡田字亀ノ甲 -一八番-原野一反五畝歩は地形亀の甲に似た楕円形の小高い岡で俗に「カメンク岡」といい、四方民有田地に囲まれた唯一の官有原野でありましたが、大正三年七月二十四日登記され今は清水村所有となっています。この岡には昔から珍奇なる即ち「亀ノ甲岡を耕せば血が出る」という伝説が遺されています。随って迷信方面より或いは神聖なる士地と信じ耕作者もなく往古の地形が保存されています。また、然るに対象の初め東襲山村重久の人2、3名が同地に移住したが疫病その他災難が続き数年で転居した事実があります。 上記の伝説より血が出るという事はあり得ないことであります。あるいは上古の古墳であって朱またはベンガラを埋めてあるのを掘り出したものではないかとも予想されます。

亀ノ甲岡の写真

朝日夕日

 「国分郷土誌」下巻の記載によれば、昔、郡田に西に朝日様、東に夕日様と呼ばれたところがありました。熊襲が住んでいたころ、ここに関所をつくって、厳重に見張りをしていたといいます。しかし、あるとき、ちょっとした油断から敵に侵入されてしまいました。関守二人は責任を問われて殺されてしまいました。関守の魂は蛇に生まれ変わり、今なおこの地を守り続けているという。関所にあった朱千両と金千両は、洪水のとき郡田川に流されたといいます。朝日 タ日のあたりで蛇を見た人は運がよいともいわれています。「清水村郷土誌」の記載によれば、「夕日蛇」「朝日蛇」というものがあったといいます。夕日蛇は、山之路傍に夕日ドンというところが、あって、岩石が裂け、上下左右に重なりってあるところに、蛇は大石の裂け目に胴のみを顕わし頭尾を見せない。春の彼岸より秋の彼岸まで隠顕し神仏の御使いなりと伝えられていました。明治に至るまで見物者多く崇敬するものもいたが、清水村郷士誌の書かれた昭和に入るとそれも途絶えたといいます。朝日蛇の場所は、夕日の対岸であったが、昭和の初めには四町許し距る川下「堂ノ前」の国道路の傍、岩石の裂け目に移管しているといいます。其の外夕日蛇の内容と同じということです。

夕日蛇、朝日蛇の伝説の場所

隼人の首塚

隼人の首塚の写真

 止上神社の西南約600mの水田の近くに隼人の首塚と伝えられる塚があります。真板田(まないただ)(別名猪切藪(ししきりやぶ))ともいわれていたところで、現在は二坪ほどの士地に自然石の碑が立ち、「隼人塚伝説の地」の文字が刻まれています。

 昔は旧暦正月十四日の初猟の日に獲った猪の肉を、33本の竹串に刺し、それを地面に立てて祭事を行ったということですが、現在は行われていません。これは遠い昔、隼人を誅数した故事に基づく神事で、隼人の霊魂を鎮めるための祭事であると伝えられています。昭和の初めごろまでは、村人が里芋を串に刺し、田楽として食べながら、昔をしのびつつ御日待ちをする習慣があったといいいます。

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