稲荷神社
姫城阿多石に鎮座。祭神は天御中主神 高寵神 倉稲魂神。旧社格は村社。創建年代は不明です。
現在の神社がある場所には、かつては天御中主神社がありました。その頃には社殿はなく、現在の社殿の右側にある巨石が御神体であったといいます。明治40年6月13日姫城竹下の貴船神社(寛政年間創建)を合祀、明治45年5月27日姫城西瓜川原の稲荷神社(寛永年間創建)を合祀し、同年5月30日に神社名を稲荷神社に改めて現在に至ります(「神社誌」「神社明細帳」)。
西瓜川原、阿多石、竹下、田辺、平岡が氏子の地域です。阿多石宮司によると、3月3日が春の例祭で、かつてはよもぎ団子を地域の婦人たちが作っていたといいます。8月3日には献灯祭として、境内に灯篭を掲げられます。鹿児島県内一円で行われる六月灯です。10月3日には、秋の例祭で昔はおにしめやおにぎりが地元の方々によって作られていました。12月 3日には新嘗祭として祝詞が上げられます。
社殿裏にそびえる溶結凝灰岩には「妙」の文字が刻まれています。これはかつてこの地が妙見神社であったことを示すにように大正の末に向花の石工によって刻まれたものとされています。妙の字はかつての清水小学校の校長であった滝崎信蔵氏によるもので、現在も境内から確認することができます。現在の社殿をつくる際に、階段下の広場になっている場所にあった社務所付近で工事関係者が黄金の蛇を見たということで話題になったことがあります。
菅原神社
姫城の字天神にあります。御祭神は菅原道真と彦火々出見命、豊宇気毘売命で、境内には門守神社が二座あります。創建は不明ですが、かつて神社のある場所には姫木城の一部とされる槙尾城があったとされています。神主は代々、北辰神社の社司が仕える習わしでありましたが、寛文元年8月から国分の若宮神社の社司の谷口但馬に祭事が譲られたといいます。寛政7年頃には府中の守公神社の社司が社務を司ったといいます。明治43年 3月15日には岩屋神社が合祀され、大正7年に宝殿や拝殿が改築されました(清水村郷土誌資料より)。
氏子となるのは、山野の東 中·北、中城の上 中·下、新七、中姫城の東·西です。現在の野元秀高宮司によると、氏子の地域をめぐるご神幸祭も昭和31年までは行われていたといいます。その行事で使用された面もありましたが現在は行方がわからないようです。また、六月灯も2年前まで行っていましたが現在は中止しています。
姫木城跡
古代には比売乃城と呼ばれていたとされ、その頃、地域に勢力のあった隼人が中央政権に対して抵抗した城のひとつともされています。標高は高い場所で169メートルあり、春山台地方面にある姫木城からすると北側に位置する橘木城とはかんぬき瀬戸と呼ばれる谷で隔てられています。地質的には姫木城と橘木城は連続し、山頂部に屹立した溶結凝灰岩が発達しているのが特徴です。
養老4 (720)年から翌年にかけて隼人が、国守を殺害して抵抗したとあります。その隼人は大隅国から日向国にかけて7ヶ城で抵抗したとされています。それが、曾於乃石城 比売乃城 奴久良·幸原·神野 牛屎·志加牟で、曾於乃石城は現在の城山公園(国分上小川)付近とされている。また隼人征討には、大宰府から大伴旅人らが派兵されています。「国分郷土誌」によると、姫木城には治安元(1021)年、大隅国に国術の職務のために京から下向した税所氏が橘木城を居城とし、その一族の姫木氏が姫木城に居城したとあります。
「三國名勝図会」にある「金吾石」は当城にあり、島津氏久勢が城を攻略した後、税所氏は人吉を中心に勢力のあった相良氏の加勢をもらい、島津勢の姫木城を攻撃しました。その際、城を守っていた碇山金吾は、敵を追い払う際に力誤って岩も切ってしまい、後に武勇とともに割れた岩を金吾石と名付けられるようになったといいます。ちなみに金吾石は大手口の近くに位置していています。
湯本大権現碑
温泉の起源に関しては案外古いとされています。それを示すのが姫城地区にある姫温泉敷地内にある「湯本大権現碑」の存在です。この石碑によると、正面に永仁元(1293)年と僧明源との銘があります。永仁元年は、鎌倉期となり、その頃に地区のどこかに温泉が湧出し、その守りとして権現を僧の明源が建立したと予想されます。ただ、石碑の裏には、永禄10(1567)年の追刻があり、そこには石碑が地下5尺の場所に埋没していたのを松慶という僧が、4月中旬に三夜共に同じ夢を見て、地下にある石碑の存在を知って掘り出したとあります。松慶は感激して、国士安穏や万民の幸せを祈願して再び石碑を建てたといいます。
こがの杜
旧姫城村の境にあたり、田んぼが広がる場所に目印のような楠の大木があります。「風の杜」や「古歌の森」などの名前で書物に出てくることもあります。この地に立つと国分平野の向こうに桜島を望むことができます。伝説によると、平家転覆の陰謀を計画した京都の僧俊寛と藤原成経、平康頼が平清盛の命によって鬼ヶ界島(現在の硫黄島か)に配流されることになりました。その際、流人の藤原成経の愛人である伯醤局は成経を慕い、この地を訪れました。鬼ヶ界島までの行くことがかなわず、この地から成経を思い歌を残したとされています。遠くに臨む桜島に硫黄島を重ねたのかもしれません。