国分台明寺地区

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国分台明寺地主神社付近(川沿い)の植生

郡田川を上流にさかのぼり台明寺に来ると、左岸側に貯水配水場が、右岸に台明寺渓谷公園に向かう道路があります。この付近から河床の傾斜は急になり、さらに上ると右に蛇行します。この蛇行部付近の左岸側はアラカシ群落で、この中にかつて植栽された竹が群落をつくっています。

 この竹の中で禾旱が太く、間隔を置いて出ているのは鹿児島ではカラダケと呼ばれるマケで、高さ15m以上、直径が10cmを越える太さまで成長し、群落をつくっています。また、秤が丸くびっしりとかたまって生えている竹は東南アジア由来のバンブーで鹿児島ではチンチク、チンチッダケと呼ばれるホウライチクで、地下茎が深く広がらずに成長するため、川を浸食や土砂崩壊を防ぐため藩政時代より意図的に植えられました。

 地主神社を過ぎた右岸側にはモウソウチクも近年広がっています。竹は毎年春に葉が生え変わり、色の変化がおもしろいです。

 また、この谷は約33万年前に流入した加久藤火砕流で、浸食された深い谷面にはミゾシダやヘラシダ、イブキシダなどシダ植物の群落が見られます。右岸側の道路脇の崖地には下垂性大型シダで子ども(不定芽)をもつタイワンコモチシダ(ハチジョウカグマ)に混じってよく似たコモチシダも小規模な群落をつくります。やや乾いた加久藤火砕流の溶結凝灰岩上には菓の形に変化があるミッデウラボシやマメヅタなども生育し、この周辺はシダ植物の生育環境として多様な環境があります。

台明寺渓谷公園

台明寺渓谷公園の写真

 標高64mの地点で日枝神社鳥居から約400m右岸側の道路を川沿いに上ったところにあります。渓谷の両側の崖部はアラカシを多く含むシイ林です。

 公園周辺、渓流は植林されたスギ林がほとんどを占めるが、渓流に沿ってアラカシ、コジイ、ウラジロガシ、コバンモチを主体とする高木林です。渓流は土砂崩壊もしばしば起こるためカシ林中には先駆性の落葉樹が多いです。ネムノキやヤマハゼ、エゴノキ、イロハモミジなどが痛生育します。低木層の植物には幹が折れやすいポロポロノキや花が葉の中央部につくハナイカダ、かつて鎌の柄に使ったカマッカ、ナンテン、サツマルリミノキなども見られます。 右岸側の崖地に青白く光るコケのようなシダ植物コンテリクラマゴケがびっしりと生えているところもあります。

日枝神社の社叢

 参道には、大きなウラジロガシ、ヤブツバキが生えその後鬱蒼とした日枝神社の森(社叢)が広がります。まずクスノキの大木が2本あり、入口に近い方は胸高直径が1.22 mあり、カタヒバやノキシノブがびっしりと着生している。奥にあるクスノキは島津忠久公が寄進し推定樹齢が800年と伝えられるものです。実測すると胸高直径が2.2 mある堂々とした巨木であり、400年程度の樹齢が推定できます。

 拝殿前の広場に面してスギ(2)、モミ(1)、ヒメユズリハ(1)の巨木があり、それぞれの胸高直径はスギ(1.06、0.79m)、モミ(0.99m)、ヒメユズリハ (0.59m)と太く、高さは25mを越えています。スギは薩摩藩が推奨した在来品種のメアサスギで、樹齢は胸高直径から300年以上ある可能性を持つと推定されます。

 拝殿左側には「青葉の竹」の看板が立っており、この周辺に生育するカンザンチクの説明がある。カンザンチクは鹿児島ではダイミョウダケ(大名竹、台明竹)、デメダケと呼ばれ、あくがなく最もおいしい竹と賞賛されています。

 また、びっしりと樹皮がマメヅタで被われた胸高直径が83cmあるイチョウもあり、全体に巨木のある荘厳な社叢となっています。

日枝山王社(日枝神社)

 山之路字不動(ふず)堂に鎮座。祭神は大山咋命(大己貴命)、旧社格は村社。「三國名勝図会」によると建仁3年(1203)に台明寺の守護神であることから阿弥陀三尊を安置した本地堂が社殿近くに建立されています。また社内には神輿三つが安置され、それには21社が勧請されているとしています。社壇には屋久杉が使用され、名匠が飽によって仕上げた造りといいます。江戸後期の社司は渡邊右京という人物で、かつては地主権現と称していたといいます。

 本殿の建物は七間社流造という極めて珍しい形式で他に類を見ない。平成 29年に「台明寺日枝神社本殿」として鹿児島県文化財に指定されました。「鹿児島県文化財調査報告書63」によると「正面桁行七間、側面梁間二間の流造で、正面柱間が異常に多く細長い平面形を持っている」特徴があります。「柱間にはそれぞれ観音開きの木製扉 七戸を備え、注目に価する」がこの理由を「日枝神社が日吉大社を勧請したことに由来するもので、日吉大社の上宮(山王社)の七社、中宮の七社、下宮の七社、合計二十一社の全てを七つの正面扉に関係漬け、それぞれを本殿内部に鎮座した三つの神輿に祀ったと考えられる」と指摘しています。

 日枝神社所蔵の「神社明細書」によると、本殿は正徳五年(1715)に屋久杉を用いて改築、明治20年(1887)に修築しています。 日枝神社に保存されている「神社明細書」「青葉竹由来」も貴重とされています。そこにも記載がある「青葉の笛竹」は、現在の境内にもある。「台明寺文書」にも「青葉の笛竹」は度々登場し建仁2 (1202)年の史料には、朝廷への貢物であることから青葉竹の掃除や管理をしつかりして成長させるようにとの達しがあったことが理解できる。「三國名勝図会」には、天智天皇が御即位前に九州を巡幸した際、笛に使える竹を所望された。そこで青菓の竹を献上し笛に使用したところ、音色がすばらしかったことからその後は献上品に定められたとしている。献上の際には、竹を府中の鏡池に浸し、葉のついたまま妙見神社(現在の姫城の稲荷神社)に奉納してから税所氏によって朝廷に献上されたとしている。「青葉の笛竹」は江戸時代中期に全国を旅した医者である橘南総の記した「西遊記」にも登場する。南硲は、訪問した際に青築の竹を持参して京 都で笛を作り、もてはやされたと記しています。

台明寺跡

 台明寺のあった位置に関しては「清水村郷土誌資料」によると、寺院の入口にあたる場所は「朝日ドンタ日ドン」と呼ばれる台明寺川(郡田川)沿いの岩壁の裂け目に小蛇が生息する場所からとしています。その場所は村人から神様として信仰されており、その河畔には鎮守山王社こと日枝神社の鳥居が建てられていたと伝っています。

 さらに郡田川の清流沿いを進むと、不動堂や仁王門などがあり、そこを過ぎて木橋を左岸に渡った場所に台明寺があったとしています。その場所は「清水村郷士誌資料」が作成された昭和12年当時、階段状の水田と民家がある場所が本堂跡で、その背後には築山と泉水等跡があり、その南側に歴代住職の墓が開墾された水田の畦に並んでいたといいます。

 「三國名勝図会」の日吉山王社(日枝神社)の絵図には、郡田川の下流に仁王門や不動堂があり、そこから少し上った川の左岸に台明寺の建物、さらに上流の右岸斜面に日吉山王社が描かれています。こうしたことから台明寺は広大な寺域を有していたようです。

 創建に関しては諸説あり、一番古いものとしては神武天皇の代とするものもあります。それは寺域内に神武天皇の伝承に関する巨石に由来するからでしょう。また天智天皇の頃に「青葉の笛竹」の材料を産出したとの伝承があることから、その頃には成立していたともされますが、寺名が史料で確認できる初見としては、「台明寺文書」にある長久2 (1041)年であり、その頃には寺院はあったとされています。また「三國名勝図会」には正嘉元(1257)年の鐘楼の鐘銘に天慶9 (946)年の小鐘があったとしていますが、鐘楼も小鐘も現存していません。他にも建仁3 (1203)年10月19日には、島津忠久が本尊である阿弥陀如来像などを安置する御堂を造立したとあります。こうしたことから、平安期から鎌倉期には、なんらかの宗教施設が台明寺にはあったことが理解されます。 宗派に関しては一貫して天台宗ではなく「三國名勝図会」に島津家10代立久の頃の永正年中(1504~1520年頃)に真言宗に改められたとされています。

島津斉彬公御茶水の碑

島津斉彬公御茶水の碑の写真

 台明寺渓谷に向かう道路沿いで、台明寺跡の住職墓などが立ち並ぶ墓地や地主大権現近くにあたる場所にあります。石碑の建立は、昭和1 5年の皇紀2600年を記念したもので、石碑の正面には「嘉永六年十二月二十日日吉山王御参拝之際御料照國神社宮司河崎正直謹書社掌渡辺休五郎氏子中」とあります。島津家28代当主島津斉彬は、日吉山王社こと日枝神社に参拝しています。その参拝に関する史料としては「鹿児島県史料の斉彬史料 第4巻」に収録されている「山田為正の嘉永六年島津斉彬向潟巡見御供日記」によると、12月19日の七ツ過ぎ(午後4時過ぎ)に國分地頭仮屋に到粧しています。次の日の20日には、國分において國分郷士約 500人計りによる強張踊を見学し、御馬見所において郷士の乗馬を見学している。その後、八ツ後(午後15時頃)から雨が降り出したことから地頭仮屋へ引き上げたとあります。

開宗之碑

 台明寺渓谷に向かう道路沿いにあります。記念碑には「当山之路、開宗之祖タル地主園喜助氏ハ、明治八年日向国山田村、園田亀太郎先生ヲ訪ヒ、御親仏御下旨ヲ奉願セシトコロ、大イ二賛同ノ意ヲ表シ、宜シク請合下サレタリ。喜助氏ハ地主園伝右衛門二話シ合ヒ、皆賛同シ、翌九年十一月、京都ノ御本山ヨリ御下旨ノ御沙汰アリ慈二日向国内場仏飯講トナヅケラレタリ。  昭和五年三月二十四日  発起人  寺元前田三之助  外門徒中」とあります。「鹿児島県の近現代」のよると、信 教の自由が鹿児島県において認められるようになったのは明治9 (1876)年とされていますが、明治6 (1873)年頃には真宗解禁の動きは起き始めているとしています。

開宗の碑の写真

この記念碑は、そうした動きと同じくして山之路においても真宗解禁の動きが静かに始まっていたことを示すものであります。ただ、この地域には明治2 (1869)年の廃仏毀釈以前には天台宗の台明寺という寺院がありました。こうした宗教施設がありながらも真宗禁止の時代に、真宗信者が密に存在していたこと、そして明治8年に、解禁に向けた動きを行ったことからも理解できます。

篠田

 今は田地となっています。日枝神社への参道の傍田の畔に「児の森」と知られたる石碑があり、篠田もその付近とされています。神武天皇御東征にあたり、付近に腰かけたという巨石が残っています。

石碑と巨石の写真
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