高座神社の社叢
社叢は鹿児島県の天然記念物に指定。ナギとイチイガシの巨木があります。ナギはマキ科の常緑高木で、神木として神社の境内によく植えられますが、ここのナギは高さ約25 m、目通り周囲4.3 m、推定樹齢800~1,000年といわれ、日本最大級の巨木です。また、イチイガシはブナ科の常緑高木で、高さ約35 m、目通り周囲5.7 m、推定樹齢400~500年と、こちらも県内最大級の巨木です。
最近の実測では、ナギは4.39 m、イチイガシは6.09 mあり、成長していることがわかりました。ナギは環境省の巨樹巨木林データベース(https://kyoju.biodic.go.jp/)によると大分県豊後大野市幹周780cmを筆頭に全国第4位の大きさになります。
芦谷のシラス採取場
芦谷のシラス採取場芦谷にあるシラス採取場の崖は、下から上までシラスと言われていますが、下部は岩戸火砕流、上部は妻屋・入戸火砕流です。シラス採取場の東部の崖では軽石層(大隅降下軽石堆積物)を挟み、この軽石層から上が妻屋・入戸火砕流の堆積物です。
高座神社
毛梨野に鎮座。清水村郷土誌資料によると、はじめは中野屋敷の門神であり、明治21年11月に毛梨野と芦谷集落の守護神として現在地に勧請したといいます。神社の祭日は、祈年祭が3月12日に近い日曜日で、「よもぎだんご」が集落で作られていたといいます。祭りを司る北辰神社の濱田宮司(昭和48年生まれ)によると、毛梨野のよもぎ団子は甘くて美味しいといいます。
昭和55年発行の「市報こくぶ」によると、当社の社殿は国分中学校の敷地にあった智之尾神社の社殿を集落が譲り受けたものが使用されているとしています。また毛梨野の鎮守神は、昭和61年発行の「市報こくぶ」には明治4年までは鎮守神社であったとし、それは炭床にあった鎮守神社と合祀したとしています。その後は川原の大山祇神社と合祀したとしています。
7月はお下りで当社から芦谷公民館まで神輿行列が登場します。地域の方の証言によると、昔は歩いて芦谷まで出かけていましたが、現在は軽トラックで移動しているとのこと。お下りの際の神輿は社殿に安置されています。 10月には豊年祭をして12月にも祝詞が上げられます。
境内には、馬頭観音も祭られており、その例祭日は五月の第一日曜日です。その祭りの日には、きゅうりの酢の物とおにしめ、豆腐が出されているといいます。他にも境内には80種類以上の植物群が自生し、樹齢800年以上のナギ、樹齢300年以上のイチイガシの巨木が、平成元年(1989) 3月 23日に県指定文化財となっています。神社の境内にある木々は大切にされてきており、鳥居横には水量は少なくなったが湧水があり、毛梨野溜池の水源でもあります。
大山祗神社
川原に鎮座。御祭神は大山祇尊と月夜見命で、御神体として衣冠束帯の木像が安置されているといます。創建に関しては不詳ですが、永正7年庚牛11月20日に秀延、丸田弥太郎、前田三郎、九郎、大工藤原家国が大願主となった棟札があるといいます。(清水村郷士誌資料)より。また、万治 4年辛丑2月9日に再興を記念して、川原村役人の宮田藤右衛門と大工長田七郎左衛門などが宝殿の造営に関与したことを示す棟札もあったといいます。また、寛永2年に再興を示す記録もあります。
明治42年7月8日に鎮守神社、明治43年3月2日には愛宕神社を合祀しています。脇宮司によると、氏子は立川、中市、市野々、萩之元、河内、松ヶ野、黒石、薄木の集落。一年の行事は3月16日に祈年祭、7月16日に巡幸祭(お下り)、10月16日の例大祭、11月16日に新嘗祭を行います。7月の巡幸祭では、神輿や旗、太鼓がそれぞれに地域をめぐるが、現在は軽トラックで移動します。それぞれの地域の公民館などで神事を行います。河内には公民館裏に徳光神社があり、そこで行います。
昭和61年6月に発行された「市報こくぶ」によると、徳光神社は指宿市山川町にある徳光神社から分霊したもので、さつまいもを鹿児島本士に伝来した前田利衛門氏を祀るといいます。明治12年に神名が授けられ、地元では「とつぼさあ」と称されていたといいます。薄木には大山祇神社があり、「お下り」の祭事はここで行われます。昭和60年12月に発行された「市報こくぶ」によると、「神名は薄山之神大明神 尊号は月読大山祇と申奉り候。此の神社は宮田少監物が庄内乱のみぎり見張り番を仰せつかり、また神社を建立」とあるとしています。建立は戦国末期ということでしょうか。
境内には明和8 (1771)年に建立された馬頭観音や延亨4 (1747)年11月の庚申信仰を記念して建立された石灯籠もあります。昔は、次の集落の人たちが迎えに来て、旗持ちは子供たちの仕事だったといいます。
昭和61年1月発行の「市報こくぶ」には、昭和43年の道路拡張工事が行われるまでは、境内にはさらに樹木がうっそうとしていたといいます。また、境内には、「国光」と正面に刻まれた日露戦争の記念碑、大正15年の上井から薄木を経由して財部に通じる道路の開通を記念した石碑もあります。
川原新田用水溝
「清水村郷土資料」によると、用水溝の設置時期についての正確な史料はないが、川原地区の市野々・中間・本川原集落の検校川右岸一帯は畑地であったといいます。そこに下場方面から油商人が地の利を見て水利事業の有望性について説いたことから工事に至ったとあります。また、工事によって右岸には美田が誕生し、面積では11町歩余の開墾がなり、年中疎水によって生活用水としても利便性が高まったとしています。用水路の取水口は、萩の元にあり、そこから右岸の山裾を川原小学校の上部の家々の前などを通っています。
この水路沿いの市野々と中間の境には「かけごし」と呼ばれる場所があり、そこには石造の太鼓橋が架橋され、その上を用水路が通る工夫がなされています。石橋が架橋されたのは記念碑によると万延2 (1861)年とされ、工事に関与した人々の名前が刻まれています。
片枝新田
かつては安田新田と呼ばれていて、明治期になってから片枝新田と称されるようになりました。寛政2 (1790)年に弟子丸の安田源左衛門が、薄木の片枝に田地を開いたことに始まるといいます。そのことを示す石碑が下薄木のゲートボール場近くの道路脇に安置されています。それによると、寛政2庚戊3月に安田源左衛門によって「御水神 御田神 御山神」として造立したとあります。灌漑地域は、池之上、片枝、開間多、上園の水田約八町歩でした。
毛梨野溜池
「清水村郷土誌資料」によると設置年代は不明だが、維新以前は改修や浚渫工事に関しては行き届かないことも多かったとされています。この池脇には湧水があって、この池の水源のひとつとされていることから溜池は、維新以前の存在と考えられます。地域では灌漑利用だけでなく、防火用や牛馬の手入れ等にも池の水を利用していたとしています。大規模な改修は、集落民の同意によって昭和9年に県費の補助によって行われています。
おがたまの木
黒石集落の宮田家の屋敷内にあり、樹高は約18メートルとされています。樹齢は推定で約600年といわれています。モクレン科で、花は紫色を帯びた白で独特の薫りを漂わせています。宮田家の方によると、この地域の字は星合原と呼ばれ、戦国末期の庄内の乱の際にこの木を目印として庄内方面(都城方面)に向かう士が集結した場と言われているといいます。そうなると約400年前には木がすでにあったと推測されます。
「アマドン土堤」の由来
「アマドン土堤」の名前の由来について、当地では伝わっていないこともあります。霧島村重久の上場牧神原西田仲左衛門翁(故人)の話には、時代不詳、清水の台明寺(上山之路のこと)に農事に精通した尼さんがいました。その尼さんが当地で農作上の指導奨励をして、後木原方面に上り引統を指導奨励、勿論これに加え、殖産興業の見地から平野の平原開拓のため堤防を築き事業を起こされました。それで今この士堤を「尼殿士堤」と称するようになったと話されたそうです。
尚、西田翁は、明治初年迄は堤防の付近に水神と崇められる間ロ一間奥行ー間半くらいの祠堂があって、堂守は当地の田代助次郎でしたが、明治五年頃霧島村「長ノ田」に移住し、又その祠堂の跡は桜の老樹があるだけだと話されています。
関連してかつて「尼殿神社」という神社があったとされています。川原の田代にあったいい、「三國神社明細帳」には記載がある。田代屋敷名頭次兵衛が宮司を務めていました。御祭神は尼殿木像三座を御神体とし、山之神や地主神も祭られていたとされています。尼殿とは官女であったとされ、聖人として地域の人々を農耕耕作に導いていたとされていています。元禄3年の正月上旬に野火が発生して、神社や御神体も焼失しました。そのために元禄9年2月に国分にあった金剛寺の真応上人に頼んで、御神体となる尼殿三体を彫刻してもらい、社殿も建立したといいます。